「ザ・作州人」 誰にもできることを誰にもできないくらいに 米ウィスコンシン医大教授 甲元拓志さん 

ザ・作州人 甲元さん(中央)と、ウィスコンシン大の心臓外科の同僚。2人はブラジルとルーマニア出身
甲元さん(中央)と、ウィスコンシン大の心臓外科の同僚。2人はブラジルとルーマニア出身
         

 今月の「ザ・作州人」はアメリカで20年以上にわたり、心臓胸部外科医として活躍している甲元拓志さん(60)に登場してもらった。29歳での留学をきっかけに40歳で移住。執刀にあたっては「誰にでもできることを誰にもできないくらい完璧に」をモットーにしているが、それでいて畏敬の念や人としてのバランス感覚を失っていない。私には「ドクターX」以上の存在に思えた。

 「甲元、どうする?」
 その度に直観を信じ、いまに至る。

 「ほんと、いつも行き当たりばったり。気がつけば還暦を迎えていました」。そう言って場を和ませた。

 彼とも高校の同級生。当然、秀才だったが、左目の下にほくろがあり、いつも笑っていたのが印象に残っている。

 「この夏、甲子園に島根の大社高が出場し、山本君ら当時の野球部のことを思い起こしたよ」。こんなところにも甲元さんの人柄がにじみ出ているように感じられた。

 医者を志したのは小学生のころ、風邪をひいても地元の開業医に診てもらうとすぐに回復。「将来は自分も周りの人の病気を治したい」と思ったそうで岡大医学部へ迷うことなく進んだ。

 「当初は地域医療に貢献するつもりだったのにアメリカにまで来てしまった」

 きっかけは1993年、米国の名門コロンビア大の研究員として「行ってみるか?」と誘われ「行きます」と即答した。英語力ゼロだったそうだが3年間、心臓移植などを学ぶとともに当時の最先端医療に触れ、おおいに刺激を受けた。

 良き上司に恵まれたことにも感謝する。岡山大では高校の大先輩でもある内田發三先生や心臓外科の名医、佐野俊教授の熱心な指導を受けた。また99年に赴任した新東京病院では、のちに上皇陛下の心臓バイパス手術の執刀医として知られる天野篤教授の薫陶を受けた。特に人工心肺装置を使用しないことで体への負担を減らす心拍動下冠動脈バイパス手術は当時としては世界最先端。その技術を米国に伝えることができたと自負する。

 そんな甲元さんは最終的に2004年に米国へ移住するわけだが、直前には悩ましい問題も起こった。00年から専門医として再びコロンビア大に勤務。現在もニューヨークで活躍する中好文教授の指導を仰いでいる中で、目をかけてくれていたスリランカ人のエドワーズ教授から「今度ウィスコンシン大学のチーフになることになった。一緒に来ないか?」と誘われた。

 それが03年6月ごろ。ところが、同年8月には岡大の助教として帰国することが決まっており、それはある意味で日本での安定した未来を約束するものでもあった。

 しかし、甲元さんは「またとない機会だ」と捉え、帰国前に現地を訪問。米中西部特有の温かみを感じ取った。両親、妻の家族も承諾。助教に就任した岡大も快く送り出してくれ、翌年9月にウィスコンシン州に飛んだ。立つ鳥跡を濁さず。それも甲元さんの義理堅さがあったからこそだろう。

 アメリカではさまざまな事件にも見舞われた。92年春のロス暴動。01年ニューヨークの同時多発テロ発生時には現場から直線距離で16キロほどのコロンビア大病院で執刀中。「ビルに飛行機が突っ込んで燃えていると聞き、テレビドラマのことかと思った」。さらに、医療現場が野戦病院と化したコロナ禍でも懸命に治療し、人命を守り続けた。

 一方で18年には所属する大学が権威ある医学部ランキングで全米48位と初めて目標のトップ50入りを果たすなど、うれしい事もたくさんあった。

 もちろん、執刀医としては間違いなくスーパードクター。「これまで私が執刀した大動脈弁の手術で死亡率は日本とアメリカを合わせてもゼロです」と言い「キャリアの最後まで続けたい」と誓った。

 一期一会の医療現場。患者さんの立場に寄り添い、仕事に対しては“大和魂”を大切にし、労力を惜しまない。さらに「人にはできないけど、自分だけにはできる手術というのはめったにない」とし「誰にでもできることを誰にもできないくらい完璧に」をモットーとする。ある日、転勤が決まったナースに「あなたの患者さんは名札を見なくても手術創(そう)を見ればわかる」と言われたことも誇りだ。

 津山の若者に向けては彼らしい味のあるアドバイスを2つ送ってくれた。

 「チャンスは比較的頻回に訪れますが、視野を広く持ち、目を見開いていないと気づかず逃してしまう。迷ったときはあれこれ考えずに自分の直観(gut feeling)を信じて従うのがベスト」

 「つらい時、たいへんな時こそ、しかめっ面をせず笑顔を忘れずに」

 そのこころを聞くと「ストレスを感じていることを周囲に悟られずに自分は自信満々で手術をしており、いまここで働けていることが楽しくて仕方がない、というふうに見られた方が周囲もリラックスしてより良いパーフォーマンスを出してくれる、といったような意味合いです」とのことだった。
 60歳。「甲元君、オレたち次はどうする?」。ミルウォーキーあたりでビールを手に語り合いたくなった。(山本智行)

 ◇甲元拓志(こうもと・たくし)1964年4月4日生まれ。久米中から津山高を経て岡山大医学部卒。93年に米コロンビア大学の研究員として3年間留学。その後、岡大、新東京病院に勤務し、コロンビア大専門医を経て03年岡山大助教。2004年からウィスコンシン大学、同医大の心臓胸部外科教授として活躍。家族は妻と2女。


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