「剣大」の前立て付いたかぶと

歴史・文化 「剣大」の前立て付いたかぶと
         

 津山藩主松平家の合印「剣大」の前立てが付いたかぶとが、日上の坂手良亘さん(76)方にあることが分かった。後頭部に「明珍紀宗保 門人保次作之」と刻字され、江戸時代後期に藩お抱え具足師・明珍宗保(1789〜1845ごろ)の弟子が製作したとみられる。具足師一族の明珍家と津山藩の関係を物語る新たな史料の可能性がある。
 頭部を覆う鉢の部分は、鉄8枚を張り合わせたいわゆる「鉄さび地八枚張り」。あごとほほを守る面具の「半ぼう」もある。鉢の裏には青色の綿布が縫い付けられ、前のひさしと面具の裏は朱漆塗りが施されている。
 明珍家は平安時代が起源で、戦国時代から江戸時代にかけて全国で活躍した。古文書などの史料集『津山藩の武具づくりと刀剣』(津山朝日新聞社発行)によると、宗保は、3代いた江戸詰めの津山藩明珍家の2代目で「東西随一の名工」といわれ、大名らの甲冑(かっちゅう)を数多く手掛けた。
 かぶとに刻まれた保次の名は宗保の門人帳に記載されている。奥州会津出身で幼名は駒吉。13歳だった1834年に入門し、46年に現熊本県人吉市を治めた相良家のお抱えとなった。生没年不詳で史料も少なく、同市教委が所蔵する「明珍保次」の銘が入った桃実形かぶとは、同市文化財に指定されている。
 疑問は、津山藩士がなぜ保次のかぶとを所有していたかだ。史料集の編集に携わった玉置清二さん(84)=大谷=によると、別の藩の武士が買うことも珍しくなく、保次の品を入手した後に剣大の前立てを装着したと推測する。通常、銘は面具などの内側にあり、鉢の外側に刻んだ理由として、名工宗保の弟子と強調したかったのだろうと想像する。
 同じく宗保の弟子で津山藩明珍家3代目の宗周が47年に残したかぶとの造りが酷似しているといい、同年代の作品の可能性があると考えられる。
 もう一つの謎は、坂手さんの家にあったこと。物心ついた頃から奥の部屋の一角に置かれていて気に留めていなかったが、玉置さんが昨年見て発覚。同時期に古い蔵を取り壊した際、糸の色などが似たよろいも見つかったが、銘は見当たらなかった。よろいびつもないことから明治期に曽祖父か誰かが購入したとみている。
 坂手さんは「藩士が持っていたかもしれないかぶとなので驚いている。津山市と人吉市のかけ橋になればうれしい」と話す。津山市文化財保護係、人吉市教委歴史文化係は「銘が実在した具足師の名なのは間違いない。明珍派の系譜を知る上で貴重な史料になるかもしれない」としている。
P①
坂手さん方にあるかぶと。津山藩主松平家の合印「剣大」の前立てが付いている

P②
名工明珍宗保の弟子の銘が刻まれている。かぶとの外側にあるのは珍しいという
P③
坂手さんと蔵から見つかったよろい。銘は見当たらないという


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