『小説 早稲田大学』執筆の過程で、ベストセラー小説『人生劇場』の著者・尾崎士郎と、津山出身の苅田與禄が交わした書簡の所在が明らかになった。與禄の孫にあたる、津山ガス社長の苅田善嗣さんが保管していた。
尾崎士郎は、1917(大正6)年に早稲田大学で発生した学校騒動・学園紛争「早稲田騒動」で、早稲田を退学となった。第2代学長の後任をめぐる派閥争いはジャーナリズムを巻き込む社会問題化した。この抗争を第3代学長として収拾したのが、津山出身の平沼淑郎だった。
早稲田騒動で6人の学生が退学となったが、その首謀者として尾崎士郎とともに退学になったのが、苅田與禄だった。士郎と與禄は、共に1916(大正5)年、早稲田大政治科に入学。翌年、早稲田騒動が勃発。2人は退学してからも親交が深く、士郎は與禄に心情を吐露した書簡を複数送っていた。
士郎が與禄にあてた、書簡1通を公開する。
前略
昨夜はまことに残念至極なりき
今暁酔簡風のまにまに 来る感慨更に無量なるものあり
諸兄が放蕩乱舞のさま 彷彿として眼底にうかびうかびてやまず
仍て恨みを風に託して送る。
東都の空妖雲に満つ
中国の秋やいかなるべき
近日再会を期して 縷々たるの恨を語らん
草々
與禄は失意のもと、津山に帰り、士郎は1922(大正11)年、「逃避行」で文壇デビュ―。この「逃避行」は、士郎がかかわっていた社会主義運動の暴露本で、数々のあつれきを生んだ。この手紙は中国へ「逃避行」を行った際の心情を吐露したものと推測される。
手紙にもあるように、與禄はあまりに「放蕩乱舞」するので家からの仕送りが止まり、やむなく活動資金を発明家として稼いでいたという。
『逃避行』の11年後、『人生劇場』は執筆された。史朗から與禄に対し、初版本が贈られている。