原子力発電所は危ない――。そんな認識が国民に広がったのは1970年代以降といわれる。アメリカのスリーマイル島や旧ソ連のチェルノブイリの原発で起きた事故が火種となり、反核の機運が高まっていった。
ウラン鉱山として歩み始め、核燃料開発の研究を担っていた人形峠にも、厳しい目が向けられた。
旧上斎原村中津河地区の坑道近くに積まれていたウラン鉱石を含む土砂の山から、国の基準を上回る数値の放射線が出ていたことが新聞のスクープで判明したのは、88年8月15日。「残土問題」などと呼ばれ、人形峠をめぐる最大の騒動に発展している。
その場所は、採掘作業によって出た大量の土砂の堆積場(推定5万立方?)で、動燃人形峠事業所も報道を受けて測定。強い放射線が出る箇所があるのを確認した。
職員は当時、「部分的に高い数値が出るのは予想していたが、その上に居住でもしない限り被ばくしない」と釈明した。しかし、疑念を抱いた社会党や共産党、反核市民団体は抗議活動を展開。工場の即時停止を求め、「周辺環境などを総点検するべきだ」と訴えた。
「核はいらない美作地区住民の会」の男性(66)=津山市=は「目に見えない存在に怖さを感じていた。しっかり後始末してほしかった」と語る。
結果として、混ざっていたウラン鉱石が低品位だったことから他の鉱石と法律上の扱いは変わらず、世間から「国の放射線管理の抜け穴」などと批評された。残土は岡山、鳥取両県の12地区計約20カ所にあるのが分かり、動燃が、放射線量を抑えるために敷地内への一部撤去や覆土の措置をとることで合意した。ところが鳥取県旧東郷町(現湯梨浜町)の方面地区については、岡山県が県内に持ち込むのを拒否した挙句、こう着状態が続き、住民訴訟に発展。最高裁まで争った末に住民側が勝訴し、国外への搬出とれんが製品への加工で決着がついた。
男性は「残土問題の発覚で放射能に対する認識を変えた人は多い」と実感。すぐ後の90年には、岡山県内での高レベル放射性廃棄物処分場の設置が噂され、持ち込ませないための県条例制定を求める運動で約34万もの署名が集まった。制定に至らなかったが、「県民が不安を覚える施設は誘致しない」という当時の長野士郎知事の意思表明は今も県の見解となっている。
実を結んだ活動がある半面、消化できていない問題も残っているようだ。「核に反対する津山市民会議」が発行した資料などによると、鉱山労働者が国際基準を逸した放射性ガスの中で働いていた可能性を京都大学の研究者が指摘し、肺がんで亡くなった元労働者の遺族のために労災認定に奔走。動燃から十分なデータが得られず断念を余儀なくされた。
東京電力福島第一原発の事故以降、国民の目は一層厳しくなっている。人形峠はフロントエンドの研究に区切りをつけたが、彼らは決して楽観視していない。「しっかり後始末してほしい」との思いは昔と変わらない。
そんな中で社会の変化とも向き合わなければならない。現在の反原発運動の下地を築いたという自負があるものの、高齢化が進んだ上、活動家は減少傾向にあり、声を届け続けるのが簡単ではなくなっている。
P①
「残土問題」の発端となった鏡野町上斎原中津河地区の土砂堆積場。放射線量の高い部分を撤去するなどして対策した
人形峠「ウラン鉱石」
- 2020年11月26日
- 歴史・文化