伊能忠敬 美作地域測量時の史実 補足史料発見

歴史・文化 下張りから見つけた伊能忠敬の測量隊に関する史料を手にする橋本さん
下張りから見つけた伊能忠敬の測量隊に関する史料を手にする橋本さん
         

 郷土史家で美作歴史ネット会長の橋本惣司さん(79)=林田=が、伊能忠敬(1745〜1818)が美作地域を測量した際の史実を補足する史料を襖(ふすま)の下張りから見つけた。津山郷土博物館の梶村明慶学芸員は「測量隊のことを詳しくうかがい知ることができる興味深い史料」としている。
 橋本さんの妻の母方の高梁市にある旧家の襖の下張りを解体していて見つけた。古文書の表紙には「文化八年 御測量方御通行 御伝馬人馬并測量人足仕出帳」とあり、村名と人足数、荷物持ち、案内、梵天持ち、縄引きなどの役割が記されている文書と、村ごとに四匁(もんめ)、七匁などの金額が書かれた文書がある。
 村は現在の新見市から高梁市に属することから「文化8年閏(うるう)2月の第8次測量隊の支隊が備後国(広島県)庄原・東城村から芸備線沿いに旧哲西町から新見へ、伯備線沿いに高梁・総社へ測量したときの文書」と橋本さん。
 「忠敬が残した『測量日記』によると、忠敬が率いる本隊は1813(文化10)年11月29日、雪の黒尾峠を越えて奈義、勝北、楢村の土橋を渡り、12月4日、津山堺町の大年寄玉置源五兵衛宅に泊まったとある。時間の経過とともに天候、周辺の神社、古城跡、家並み、宿泊した庄屋などの名前、出発から宿泊地までの距離などが克明に記されている」
 しかし「日記には忠敬の本隊と、弟子の永井、今泉らの支隊に分かれてどのようなルートを測量したかは書いているが測量は何人くらいが参加したか? どのように行われたかの記述はない。国家的な事業であり莫大な金銭が投入されたはずだが、金銭に関する記述もない。そうした疑問に答える史料」と指摘する。
 「大日本沿海輿地全図は世界に誇る地図。伊能忠敬測量隊のことは、落合町史に数行記述があるだけで、津山市史をはじめ久米町史、久世町史、勝央町史にも記述はない。今回見つけた史料を、より多くの人たちに忠敬の偉業を知っていただくために活用したい」と話している。


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