春から故郷の岡山を離れて、長野県の大学で学ぶことになった井上晋志君(18)。新生活への希望を抱く中、3歳の頃から通っていた多喜理容院の店主・河中多喜男さん(76)に出発前の3月28日、お別れの挨拶をした。
井上君が多喜理容院で髪を切り始めたのは3歳の頃。幼い記憶の中に、おもちゃであやされながら、髪を切ってもらったことを今でも覚えている。それからずっと理容院は変えていない。10キロほど離れた隣町に引っ越した高校の頃も、自転車で通った。ただ、県外への大学進学が決まり、通えなくなった。
家から遠くても通った理由について、井上君は「髪を切ってもらいながら色々な話を教えてくれました。僕にとって、河中さんは人生の先生のような人です」と話してくれた。
切ってもらう髪型はいつもお任せ。1時間半ほどかけて、丁寧に仕上げてくれる。散髪に行く度に、話してくれたことが心に残った。受験勉強で悩んだ時も、一つの話を胸に頑張ることができた。それは「朝」の漢字にまつわる話。
「朝という漢字を分解すると、十月十日になる。これは赤ちゃんがお母さんのお腹の中で過ごす期間と一緒。だから、人は朝を迎えるごとに生まれかわったように気持ちを新たにすれば、苦しいことがあっても何度でも頑張ることができる」この話を苦しい時期の励みにして乗りきった。
多喜理容院は昭和45年に開業し、長年地元の人たちに愛されてきた理容院。店主の河中多喜男さんは、中学を卒業後、京都で6年修行し、故郷の岡山県津山市で開業した。自分の名前にあるとおり、多くの人を幸せにしたいという願いを込めて店名をつけた。
井上君が、理容院を訪ねたのは長野県に引っ越しをする2日前。店内に飾られる絵や年季の入ったハサミは、井上君にとっても思い出深いものばかり。たくさんの思い出話に花が咲く中、最後に「長い間色々教えていただいてありがとうございました。こんなに親しくしていただき、嬉しかったです。いつも散髪が楽しみでした。髪が切れるだけでなく、お話ができるのが楽しかったです。また、帰省した時は寄らせてください。その時はよろしくお願いいたします」と感謝の気持ちを伝えた。
多喜男さんは、「最後にお別れができるお客さんばかりではないですから、嬉しいです」と涙ぐみながら、「これからの人生では色々なことがあると思うけど、一番大切なのは人柄、人間性です。先祖や親に感謝して、まわりに温かく接していって欲しいです。こうして、お会いできると思わなかったので嬉しかったです」と話した。
店を出た後「いつも散髪が終わると見えなくなるまで、見送ってくれます」と井上君。河中さんは、大きく手を振ってくれた。