岡山県真庭市草加部の雄大な旭川に抱かれた地に「牧野木材工業株式会社」はある。今年創業160年を迎える「故郷の森を守る仕事」をなりわいにしてきた老舗企業だ。
「前へ!常に努力するところに前進がある」―。そう社是が掲げられた広大な製材工場の敷地内に9代目・牧野泰斗さん(38)の姿はあった。フォークリフトを操る姿はスムーズで、熟練の域に達している。テンポ良く丁寧に木材を積み重ね、運んで行く。
「最初は、板一枚も持てないのかと、ベテランの女性職員さんに言われたこともあります」。泰斗さんは4年前、家業を継ぐために東京から帰ってきたばかりのことをそう振り返る。
泰斗さんは津山高校卒業後、中央大学理工学部に進学。大学卒業後は大手スポーツメーカーのアディダスジャパン、広告代理店の博報堂で勤務。都会の華やかな業界で充実した日々を送っていた。
「真庭に帰ってくることに迷いはありませんでした。祖父である牧野俊との約束でしたから」。そうは言うものの「最初は東京とあまりにも時間の流れ方が違うので、戸惑いはありました」。
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牧野木材工業のルーツは1863(文久3)年。牧野庄平が久世の出雲街道沿筋で薪炭(しんたん)問屋「豊国屋」の屋号ですでに商いをしていたと、久世町史に記載されており、それを創業としている。当時の久世は高瀬舟の河岸場(かしば)として賑わっており、豊国屋は高瀬舟で薪炭やミツマタ、楮(こうぞ)、シイタケなどの林産材を県南や四国へ出荷し、海産物や塩などを持ち帰って商いをしていた。
1898(明治31)年、中国鉄道が津山―岡山間、1924(大正13)年には姫新線が久世まで開通し、商品の輸送手段は高瀬舟から鉄道に変わる。豊国屋は出荷先を大阪、東京まで伸ばして商いを大きく飛躍させた。
屋号は山陽薪炭販売事業協同組合、カネショー木材事業協同組合へと変わり、最盛期には鉄道の貨車列を貸し切り輸送。しかし1945(昭和20)年発令の薪炭統制法や電気やガスのエネルギー革命のため薪炭の立ち位置が激変し製材業に転換した。
7代目牧野俊氏が1976(昭和51)年に牧野木材工業株式会社に改組。真庭地区は全国でも有数の製材所が密集した木材産業都市となり、同社は森を守る観点から県産材にこだわり続けた。
船積み用のダンネージと呼ばれる梱包材を取り扱っていたが、輸出産業にかげりが出てくると、これまでも時代の変遷に柔軟に対応してきた同社は、住宅構造材部門に進出。国産材と品質にこだわった製品作りがブランドと信用を高めていく。
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2008年に8代目の淳一郎氏(68)が社長に就任し、翌年にはJAS製品として販売できる「機械等級区分Aタイプ」の認定を全国4社目に取得。1本1本の含水率、寸法、強度、見た目などを検査。合格した製品のみJASマークが付与される。「徹底した品質管理が信用につながる」と淳一郎社長は木材に印字されたマークを見つめながら話す。
また「人と地球に優しいモノづくり」をモットーに掲げ、まずは木材乾燥のために従来から使用していた重油ボイラーから、製材の過程で出来た樹皮や木片を燃料とする木質バイオマスボイラーに切り替え、地球温暖化の原因の一つである二酸化炭素(Co2)を大幅に削減。さらに従来より削減された二酸化炭素の排出削減量を国が認証する「国内Jクレジット制度」を業界内で先駆けて導入した。
「木は余すことなく使える。弊社は循環型企業です」と淳一郎社長は話す。「木材は、繰り返し再生産することのできる人と地球に優しい資源。地球環境を守るためにも木を使い、植林し、環境や生命を循環させる。大切な自然資源を次の世代に渡さなくてならない。そのためにも県産材を使う。だからこそ故郷の山が守られる」
9代目・泰斗さんは160周年を期に専務取締役に就任する。「一日一日を丁寧に積み重ねての160年。先祖の思いを引き継ぎ、一日一日を大切にしながら次世代につなげたい」