今月の 「ザ・作州人」 は超大物に登場していただいた。 今年4月にオリックス銀行の社長に就任した寺元寛治さん(62)がその人。 東京大学法学部を卒業後、 生存競争の激しい金融業界の第一線で活躍してきた。 津山高の同級生からは圧倒的な支持を受ける人格者。 それはいまの立場でも同じだろう。 それを形づくったのは幼い頃の体験だったか。
本物の人格者なのだろう。 今回の取材を前に寺元さんの高校の同級生に証言してもらうと、 こんな答えが返ってきた。
「カンちゃんは文武両道だったね」 「応援団長も務め、 うまくまとめていた」 「いつ勉強しているんだって感じ」 「勉強の教え方が上手だった」 「えらくなって当然」 など、 絶賛の嵐。 中には 「彼女が途切れずにいた」 というのもあり、 何ともうらやましい限りだが、 本人はいたって謙虚。 柔和な笑顔を浮かべるだけだった。
「加茂の田舎者が東京に出てきて、 四十数年。 何とか頑張ってきたという感じです」
津山高では剣道部で二段の腕前。 その後、 進学した東京大学では野球部などの運動部を統括する体育会事務局に所属し、 学内サッカー大会なども運営した。
4年生の夏は山梨県の山中湖畔にある学生寮の寮長として運動部の夏合宿をサポート。 「当時はネットも携帯電話もない時代。 情報がなくて就活では出遅れていた」。 こんなところにも人間味があふれているが、 そこは東大。 「声をかけてもらったのは東京海上、 三菱銀行、 三和銀行の三つ」 というからやはりすごい。
1986年に三和銀行に入行。 2001年11月から03年にかけて花形のニューヨークで勤務した。 テロ直後ということもあり、 手放しで喜ばれる形ではなかったそうだが、 貴重な経験を積んだ。
「外から日本を見ることによって、 新たな気づきがあった。 この感覚はすべてにおいて大事だと思う」
バブル崩壊後、 2000年代初頭には銀行再編があり、 07年新生銀行、 13年オリックス銀行へ転職した。 「他ではやっていない独自の活動を」 との命を受け、 システムのクラウド化、 内製開発の中心人物として貢献。 「経験がなかったのが、 かえって良かったのかも。 おもしろかった」 と話す。
そのオリックス銀行は総資産約3兆円、 純利益約200億円で業界では中堅クラス。 他行のようにトップを頭取とは呼ばず、 またATMやキャッシュカードはなく、 口座振替もないという特徴がある。 投資用不動産ローンに強く、 社長就任後は 「サステナブル分野への法人融資に力を入れている」 とのことだ。
実は8年前。 オーストラリア大使館に勤務する同級生の酒井浩之さんが音頭を取ってくれ、 東京・赤坂の夜景を眺めながら3人で食事をしたことがある。 業界用語が飛び交い、 話について行けなかったが、 人柄の良さは十分すぎるほど伝わって来た。
名前通りに寛容で柔軟な心。 もしかすると、 それは幼い頃の体験から来ているのかもしれない。 「実を言うと私、 小学校6年を2回経験しているんです」。 急性腎炎のため、 半年間ベッドでの生活を余儀なくされた。 「そのころ、 身近にいた小学生が病死したことを目の当たりにし、 自分もいつ死ぬか分からないなと感じました。 だから何にでもチャレンジしてきたのかもしれません」
混沌 (こんとん) とする時代。 改めて人生観のようなものを尋ねてみるとSEKAI NO OWARIの平和を願った名曲 「ドラゴンナイト」 の一節を挙げてくれた。 「人はそれぞれの正義があって、 という部分が刺さったんですよ。 多様な意見を大切にしなければ、 と感じます」。
これからは銀行家としての集大成を迎える。 「社員やその家族のためにも会社を成長させていかなければならない責任を感じています。 コントロールできないものは台風と同じで受け入れ、 自分で変えられるものには力を入れていきます」。
趣味は神社仏閣や博物館巡りとのこと。 「今年も奈良や京都に行きました」。 先輩、 私も嫌いじゃないので関西にお越しの際は、 ぜひお供させてください。
(山本 智行)
◆寺元寛治 (てらもと・かんじ) 1963年1月23日生まれ。 津山高から東京大学法学部を経て86年4月に三和銀行へ。 2007年新生銀行、 13年9月オリ
ックス銀行に入社し、 営業企画部長、 常務執行役員などを務め、 システムのクラウド化、 内製開発に尽力。 24年4月に取締役兼執行役員副社長。 趣味は寺社仏閣巡り。 剣道二段。