上部神社の「禍福神社」/岡山・津山市

暮らし
         

 「禍(わざわい)転じて福と為す」―。岡山県津山市草加部の上部神社には、そんな願いが込められた疫病封じの「禍福神社」が末社としてまつられている。コレラが流行していた1891年(明治24)の創建。地元住民のあつい信仰によって守られ、人と疫病の関わりを伝え続けている。24日には新型コロナウイルス終息を願う疫病封じの祭りが約50年ぶりに執り行われた。
 「禍福様」として親しまれ、格別の尊崇を受けている。地元住民が参拝する際は、本社の上部神社よりも先に禍福様をお参りするのがしきたり。
 それだけではない。夏と秋の大祭は禍福様が優先され、その際は上部神社の本殿扉は閉じられたまま。大祭前の清掃では禍福様のために必ず新品の雑巾とほうきが用意されるという徹底ぶり。20代のころ草加部に引っ越してきたという今井喬洋さん(79)は「ずっと不思議だった。ただ、大切にされているのはよく分かった」と話す。易伯通宮司(68)は「何か縁起をかつがなければならない特別な事情があったのだろう」と推測する。
 明治時代、コレラは全国的に流行し、1879年(明治12)と1886年(明治19)にはその死者は10万人を超えている。津山市史によると、明治12年は5月から10月にかけて発生し、学校は休みになり日中は町中を歩く人は至って少なく、徳守宮では祈祷が行われ、衆楽園の建物は臨時の病院になったという。明治19年の流行の際は県が津山署や役所に多人数の集会停止を求める通達を出している。1893年(明治26)は天然痘が大流行した。その翌年には市内に伝染病専門の病院が建設された。
 禍福様の御祭神は一般には明らかにされていないが、中央の荒ぶる神を左右の神がなだめる祀り方になっており、不動明王が合殿に祀られている。当時の宮司と地元有志でコレラ封じのため祠を設けて祭祀したのが始まり。易宮司は「厄病神といった嫌われ者の神様を普通の神様以上に祀り鎮めるのは日本の信仰にある型。有史以来、人類は疫病に悩まされながらも乗り越えてきた。禍福様はそうした歴史の一つの象徴ではないか」と話す。
 総代長の須江保さん(73)は「禍福様のことはいつも言い聞かされ育った。身内が病気になれば禍福様をお参りする。インフルエンザがはやればお参りする。そうやって病気と付き合ってきた」と語る。
 これまでに数回、疫病封じの祭事が執り行われており、直近では1968年(昭和43)に地域で流行性肝炎がはやった際、臨時の祭りが行われている。そして約50年ぶりに疫病封じの臨時の祭事が24日にあった。
 「マスクを使わなくてもよい日が早くきてほしいが、コロナが去ろうが、またはやろうが、変わらずお守りしていく。これまでそうしてきたし、今後もそうしていく」と須江さん。
 「強調したいことがある」と易宮司。「神道では神具に息をかけてはいけない。参拝するときは手水舎で手を洗浄し、口をゆすぐ。手洗い、うがいをしっかりして、新型コロナを乗り越えましょう」と述べた。
写真
P1
疫病封じの「禍福神社」前で。左から総代長の須江さんと、氏子の今井さん

P2 上部神社


>津山・岡山県北の今を読むなら

津山・岡山県北の今を読むなら

岡山県北(津山市、真庭市、美作市、鏡野町、勝央町、奈義町、久米南町、美咲町、新庄村、西粟倉村)を中心に日刊発行している夕刊紙です。 津山朝日新聞は、感動あふれる紙面を作り、人々が幸せな笑顔と希望に満ちた生活を過ごせるように東奔西走し、地域の活性化へ微力を尽くしております。

CTR IMG