人形峠連載1 ウラン鉱床露頭発見の地

歴史・文化 人形峠連載1 ウラン鉱床露頭発見の地
         

 「ウラン鉱床露頭発見の地」
 鏡野町上斎原と鳥取県三朝町木地山の県境にある人形峠。こう記された碑が道脇にひっそりとたたずむ。65年前の1955年11月、原発燃料の原料となるウランの鉱床がここで見つかった。
 「やったぞ。ウランだ。まちがいない。こいつはウラン鉱だ」。喜びに沸いた様子を、旧上斎原村の村史が伝えている。
 戦後10年。石油資源に乏しい日本では新エネルギーの可能性を見据え、通商産業省(現経産省)の地質調査所が全国各地で天然ウランを探査。中でも中国山地は、豊富に含むとされる花こう岩で大部分ができており、当初から有望視された。探査班は、放射線に反応すると音が鳴るシンチレーションカウンター(測定器)を四駆車に積んで山中を走行。人形峠に差し掛かった時、「パチンコの玉が『大当たり』の穴に入ったときのような派手な音を立てた」という。
 「日本の放射線利用の原点ともいえる場所」と日本原子力研究開発機構人形峠環境技術センターの日野田晋吾総務課主幹(53)。
 鉱床が地表に出た「露頭」に遭遇した探査班は「大規模に広がっている」と確信したという。政府は原子燃料公社(原燃)人形峠出張所を設立して現場を引き継ぎ、県境付近のいたるところに溝を掘って鉱脈について調査。多くの鉱石に見られるような地下で固まるでき方と異なり、はるか昔に、一帯にあった湖や沼の底に沈殿して形成された堆積型鉱床と分かった。国内初の発見だった。
 悲願のエネルギーの自給自足に向けて、人形峠は大きな期待を背負って滑り出したかに見えた。
 ところが運命を分ける現実に直面する。熟練炭鉱夫らが坑道を掘り進めるうちに、鉱石に含まれるウランの量が少ないことが分かったのだった。平均含有率0・05%。海外の0・2%などと比較すると貧鉱で、採算ベースに乗らなかった。全体の埋蔵量も、当初予想された50万㌧とかけ離れた2000㌧と算出された。
 本格的な採掘を諦め、研究の道にかじを切った。生産のコストダウンにつなげて輸入ウランに対抗しようという思いがあった。
 事業は、動力炉・核燃料開発事業団(動燃)に承継されて以降、軌道に乗った。重機で表土を削る採掘手法の「露天掘り」などに取り掛かったが、力を入れたのは製錬から転換、濃縮までの技術の確立。つまり、鉱石からウランを取り出して化合物に変えた上で、燃料加工の直前工程となるウラン濃度を高める研究だった。
 そんな中、国も、高速回転する遠心分離機を使って濃縮する方法をプロジェクトに指定し、動燃は人形峠で試験を開始。濃縮ウランを独自技術で初めて生産することに成功した。鉱床の発見から20年余が経過した1979年の事だった。
 数千基の遠心分離機を納める関連施設を80年代にかけて順次建設。以降、機械の高度化、濃縮技術改良の研究の先頭を走り、現在の人形峠環境技術センターに改称後の2001年、稼働を終了した。体制一元化のために設置された青森県六ケ所村の事業所に引き継がれ、実用化されている。
 同センターの木原義之所長(62)は「長い歴史を誇る研究開発拠点。核燃料サイクルの上流といわれる分野で成果を上げ、築いた技術は海外でも活用された。濃縮の遠心分離法を実用化につなげた意義は特に大きい」と歩みを評価する。
    ◆     
 核燃料開発分野の研究を担っていた日本唯一のウラン鉱山「人形峠」。65年の歴史と現状をリポートする。
P①
ウラン鉱床の露頭が見つかった人形峠の道脇にたたずむ碑

人形峠連載1 ウラン鉱床露頭発見の地
P②
1958年ごろの人形峠。原燃の出張所が建てられ、ウラン鉱石の採掘を進めた
P③
遠心分離機。1979年に濃縮ウランの生産に成功した


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