「新鮮でどきどきしました。これは、歴史的なことではないでしょうか」
出来上ったばかりの酒を手にそう話すのは、落酒造場(岡山県真庭市下呰部)の社長兼杜氏(とうじ)の落昇さん(43)。しゃれたラベルにはメイン銘柄の「大正の鶴」とあるが、口に含むと往年のファンならその違いにすぐ気が付くはず。
実はこの酒、御前酒の辻本店(同市勝山)が原料に使っている水で仕込んだもの。両蔵の垣根を越えた共同醸造プロジェクトの一環で、統一ブランド「HACCOS(はっこうず)」を立ち上げ、「水の交換」をテーマに”新しい日本酒”の製造に挑戦した。
両蔵は20キロほどしか離れておらず、ともに旭川水系の伏流水を使っているが、湧き出る水の性質は真逆。大正の鶴の仕込み水はミネラル豊富な硬水。一般的に硬水で仕込んだ酒は輪郭のはっきりした辛口に仕上がる。
一方の御前酒は、”無”と評されるほど不純物が限りなく少ない軟水。軟水で仕込んだ酒はなめらかですっきりとした味わいになる。
HACCOSの「大正の鶴」は「口に含んだ瞬間のストレスのない、まろやかさと軽やかさがある」。それでいて風味豊かな存在感のある味わいに仕上がった。
「違いに驚き、感動した。発酵の奥深さを改めて実感しました」と落さん。「冷酒がおすすめですが、燗(かん)にすると大正の鶴らしさが出てきます」。
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酪農が盛んな蒜山高原があり、豊かな自然に囲まれ、一級河川の旭川が流れる真庭地域は、かつては醸造業が盛んに行われ、豊かな発酵文化が根付いている。日本酒、しょうゆ、みそ、酢、ワイン、チーズ―、同地域の発酵に関する異業種7社が、発酵をテーマに地域を盛り上げようと「まにわ発酵‘s」を立ち上げたのは10年前。落酒造場と辻本店は発足当初からのメンバーだ。
今回のユニークな酒が生まれた背景は、コロナ禍における日本酒業界の不振がある。飲食店に卸す酒の量が減り「コロナ禍前の半分近く」と落さん。そこで大正時代には約20の酒蔵があった真庭地域の二つの蔵が手を取り合い、共同醸造プロジェクトを立ち上げた。
「歴史的な日」は昨年11月15日。杜氏の辻麻衣子さん(44)ら辻本店の蔵人が落酒造を訪れ、落さんとともに仕込み作業に取り組んだ。「もろみ」づくりでは落さんと辻さんがタンクを挟んで向き合い、息を合わせて櫂(かい)棒で混ぜた。「何も言わなくても分かった部分もありますが、基本的に流儀、方法は全く違い、新鮮でした」と辻さんは息を弾ませた。
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次は辻本店が、大正の鶴の仕込み水を使った酒づくりに挑戦する。彩水は今月18日までに行い、本仕込みは3段仕込みで22日までに落さんも参加して行う。
酒蔵同士が協力して共同醸造する例は他にもあるが、異業種の発酵グループとしての取り組みは他になく、「水の交換という大胆な発想はまにわ発酵‘sならでは」と辻さん。HACCOSの御前酒について「どんな風になるかまったく予想つきません。楽しみではありますが、怖くもあります」。
「発酵の力と、日本酒の奥深さを楽しんでいただける機会を提供できるといいですね」と落さん。辻さんは「二つの蔵の垣根を取り払った、新しいお酒。大正の鶴、御前酒と、HACCOSを飲み比べるのも楽しいかもしれません」と語る。
HACCOSの大正の鶴は岡山、真庭市内の酒店、津山市の一部酒店で販売中。720ミリリットル、1700円(税別)
問い合わせは、落酒造場(TEL0866522311)。
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1 もろみづくりに取り組む落杜氏と辻杜氏