伝統行事「賀茂競馬」について

歴史・文化
         

 京都府京都市の上賀茂神社で毎年5月5日に行われる、天下泰平や五穀豊穣を祈願する伝統行事「賀茂競馬(かもくらべうま)」。平安時代の1093年から続く勇壮な神事に、同神社の荘園だった倭文地区(岡山県津山市久米地域内)は深い関わりがある。出走馬のうち「美作国倭文庄(しどりのしょう)」は最も重要視されている馬。特別な馬装を施され、最初に走り、しかも必ず勝つことがしきたりというから、興味をかき立てられる。
 社史によると賀茂競馬は、もともと宮中で行われていたものを1093年に同神社に移して行われるようになったのが始まり。19国20カ所あった神社の荘園から馬が1頭ずつ献進されたことから、現在も出走馬はその荘園の名を負う。室町幕府の足利義満ら3代将軍や戦国武将の織田信長らも観覧したとされる。
 現在の競馬の起源とも言われ、境内の直線馬場を2頭ずつ駆け抜け、その速さを競う。現在は12頭で行われ、最初に走る倭文庄は他の馬とは違う豪華な装いで登場。加賀国金津庄の馬と対戦し、この順番は決まっている。倭文庄が先に走りだすと、金津庄が追いかける形で出走するが、倭文庄が必ず勝つことになっている。続く対戦からは真剣勝負となる。
 なぜ倭文庄の馬は一番に登場し、必ず勝つのか――。その疑問を、歴史学者で津山市史編さん委員の前原茂雄さん(津山市加茂町出身、真庭市在住)が公家の史料を基に解き明かし、新説として発表した。「平安時代以降の国家・朝廷にとって、国名の『美作』は特別な意味を有する言葉であり表記だった」と話す。美作の漢字は「美しく作る、生産が上がる、実りが多い、国が富むなどのイメージを強く持つ国名。そのため朝廷行事で『美作』は欠かせなかった」。
 それは、賀茂競馬が始まった時期に公家たちによって書かれた記録によって裏づけられるという。前原さんはそれらを綿密に分析した上で、五節会(ごせちえ)などのめでたい宮中行事に「美作守」がつねに関与し、「美作童女」が舞った事実などを確認した。また宮中や公家の慶事でたびたび奏でられた曲に「美作」があり、年頭の儀式で形式的に取り交わされた文書も「美作国」と書かれたものに集中していたことを突き止めた。「国家が期待した五穀豊穣の願望を体現する表記だったからこそ、『美作』は朝廷で重要視された」と考察する。
 これらを根拠に、宮中の古儀を今に伝える賀茂競馬で最初に登場し、必ず勝利する理由を「倭文庄の馬がほかならぬ美作国の馬だから。その勝利は1年の五穀豊穣などを約束するための必然と言える」と結論づけた。
 また前原さんは久米地域の歴史について、「江戸時代以前のあり方を示す手がかりが多く残っており、再評価すべき」と強調。地名の「一色」「里公文」「領家」などは中世(1000〜1600年)にさかのぼるもの。京都にある真言宗御室派の本山・仁和寺の領地として、大井庄が存在したことも注目に値するという。
 「地域に残る古文書、石造物、地名・屋号などをきちんと記録して残すことは、地域だけでなく、都との関係や国家・社会を考える上で貴重な材料にもなりうる」と話している。
 2月に開かれた久米地域の高齢者学級「格致大学」で講演し、発表した。

1賀茂競馬で力強く疾走する「美作国倭文庄」の馬(写真提供・金田稔久さん)
2「美作国倭文庄」の馬が必ず勝つ理由について新説を唱える前原さん


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